Lucien Clergue ルシアン・クレルグ
ジプシー・テンポ
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キュレーター:フランソワ・エベル
セノグラファー:山尾エリカ
世界最古の写真祭「アルル国際写真祭(Les Rencontres d'Arles)」の創設者であるルシアン・クレルグ(1934 - 2014)は、海辺のヌードの作品や、画家パブロ・ピカソとも親しく、そのポートレイトでも知られる写真家です。晩年、文化への多大な貢献が評価され、写真家として初めてフランス・アカデミーにノミネートされました。南フランスに位置するアルルは、ローマの人々が地方分権の首都の一つとして建設した比類なき遺産都市です。南仏の湿地帯に位置し、その独特の光は画家フィンセント・ヴァン・ゴッホを魅了し、彼の代表作となる絵画の数々が生まれたのもこの地でした。
アルルはジプシー(ロマ)の一族の故郷でもあります。年に一度、5 月になると、近くの小さな村「サント=マリー=ド=ラ=メール」で行われるジプシーの人々の守護聖女、黒人の召使だったとされるサラの巡礼のために、ヨーロッパ中から多くのジプシーの人々がやってきます。
アルルは1950 年代、写真家としてのクレルグにとって最初の撮影地でした。彼はすぐにジプシーのコミュニティと関わり合い、彼らの生活を撮影するようになりました。ジプシーの人々がナチスにより収容所に送られ、他のどの民族よりも後回しにされて解放された第二次世界大戦後のことです。
本展の作品には、ジプシーの数家族の日常生活、荷馬車で生活するノマドの伝統、宗教の重要性、そして鮮烈な存在感を放つジプシーの音楽とダンスが写し出されています。自身もヴァイオリン奏者であったクレルグは、のちにジプシーのギター奏者の巨匠となるマニタス・デ・プラタとその友人、ホセ・レイエス(後のジプシー・キングスのメンバーの父親)を見出し、世界に向けて彼らを興行するようになりました。そうしてマニタスは 60 年代を代表するスターミュージシャンのひとりとなり、日本を含む世界各地でコンサートが開催されました。
本展では、これまであまり発表されることがなかったクレルグの最高峰の作品群であり、アルルでの日常からニューヨーク・カーネギーホールまでを写した、ジプシーの人々の貴重な旅が展示されています。
クレルグはこうした旅を通じて、近代写真の巨匠として名高いアンセル・アダムスやエドワード・ウェストンらアメリカ西海岸の写真家たちと出会います。そして 1970 年に友人のジャン=モーリス・ルーケットとともに創設したばかりの写真祭に彼らを招聘し、その作品を展示しました。それが後に KYOTOGRAPHIE をはじめ多方面にインスピレーションを与えることになる、世界初の写真フェスティバル「アルル国際写真祭」の始まりとなるのです。
アーティスト
Lucien Clergue ルシアン・クレルグ
ルシアン・クレルグ(1934–2014)は、南仏のアルルで育った。フィンセント・ファン・ゴッホがいくつもの傑作を生み出したアルルという街の存在は、写真や音楽において功績を残したクレルグの芸術活動の根底にあった。10歳のときに経験した戦争による破壊と貧困は、彼の人生に深い影響をもたらした。1948年、食料品店を営んでいた母親からボックスカメラを贈られる。彼女は息子が芸術家になると考え、彼はヴァイオリンを学び、のちに写真に興味を持つようになった。1953年にはアルルの戦場跡の子どもたち、凍てつくカマルグ(南仏)の湿地での動物の死体、そして闘牛を撮影した写真作品群で画家パブロ・ピカソのお墨付きを得ることとなる。波打ち際のヌードのシリーズは、1970年代、西洋の解放された性の時代に彼を有名にした。1969年にはアルル国際写真フェスティバル(les Rencontres Internationales de la Photographie d’Arles)を立ち上げ、プロやアマチュアの写真愛好家たちが集う、年に一回の世界的な写真祭となった。同じ頃彼は、間もなく世界的に有名になる、ロマ族のギタリスト、マニタス・デ・プラタ(後に出てくるフラメンコ・ギター・バンド、ジプシー・キングスのメンバーの父であり、叔父でもある)を見いだし、彼の興行主となった。またこれがきっかけとなって、カマルグの重要なロマ族コミュニティと親密さを築き、長きに渡って多くの写真を収めることとなった。2006年、クレルグは写真家として初めてアカデミー・デ・ボザール(フランス学士院)の会員となり、2008年には芸術文化勲章コマンドゥールの称号を授与され、2015年にはパリのグラン・パレで大規模な回顧展が開催された。