Roger Eberhard ロジャー・エーベルハルト
Escapism
In collaboration with IMAGES VEVEY (Switzerland)
スイス人フォトグラファー、ロジャー・エーベルハルトの最新作シリーズ〈Escapism〉(エスカピズム/現実逃避)は、クリシェ的な(よく聞く)観光名所をめぐる旅であり、スイス文化の特異性を知るための糸口でもあり、また、リチャード・プリンスやシェリー・レヴィーンらのアプロプリエーション(流用・借用)からアンディ・ウォーホルやロイ・リキテンシュタインらのポップアートまで、美術史上の様々なムーブメントを想起させる作品でもあります。
スイスのレストランやバーでコーヒーを注文すると、小さな茶色のプラスチック容器に入ったコーヒーフレッシュが必ず添えられて出てきます。このクリームの容器には薄いアルミ箔の蓋(ふた)がついていて、それを剥がしてコーヒーにクリームを注ぐのですが、この蓋に写真が印刷されるようになったのは1968年のことでした。
クリーム容器の蓋に印刷された写真の多彩なジャンルの中から、エーベルハルトは特に風景写真にフォーカスしています。小さな蓋に印刷された風景写真をさらに再撮影するという手法で、高解像度のカメラを使用して超クローズアップで撮影します。スタジオで撮影した写真は、緻密なデジタル処理によって完璧な画像に仕上げられます。最終的には、過剰なまでに大きく引き伸ばしてプリントし、もともとのクリーム容器の蓋の写真に新たな解釈を加えた作品が完成します。
「Escapism(エスカピズム)」とは、現実を直視しないこと、すなわち、現実世界や社会生活に幻滅し、そこから逃げ出そうとする態度のことを指します。現実逃避はパンデミックの外出制限の間にロジャー・エーベルハルトのプロジェクトの中心的なテーマとなっていきます。エーベルハルトの〈Escapism〉(現実逃避)では、非常にスイス的な伝統──すなわち、コーヒー用クリーム容器の蓋を収集すること、そしてそこに印刷されているイメージを鑑賞し、愛でること──を作品の題材として取り上げています。
引き伸ばされたプリントでは、CMYK印刷の網点のパターンが鑑賞者の立ち位置によって現れたり消えたりします。インクのドット(網点)ひとつひとつが生み出すグリッドは、イメージの工業性を際立たせます。アンディ・ウォーホルやロイ・リキテンシュタインの作品とも相通ずる要素です。ドットのパターンはまた、鑑賞者を夢想的な逃避から現実の世界へと容赦なく引き戻す力も持っているのです。
バーチャルツアー
アーティスト
Roger Eberhard ロジャー・エーベルハルト
Special Interview|ロジャー・エーベルハルト
2023年2月10日
(インタビュー・構成:田附那菜)
コミュニケーションツールとしての写真
── 写真を始められたきっかけを教えていただけますか。
15歳か16歳の頃、最初のカメラを手にしました。私は、カメラのシャッターを押すこと、暗室でフィルムを焼く作業など、写真の全てのプロセスにすっかり惚れ込んでしまったんですよ。その頃からずっと写真ばかりやっています。
── 当時、どこかで写真コースを専攻されていたのでしょうか? それとも独学でしょうか?
高校最後の年、私は高校で写真のコースを選択しました。でも、暇さえあればたくさん写真を撮っていましたね。外国を旅して、そこの都市の風景を撮影したりもしていました。
── 高校に暗室があったのでしょうか?スイスの学校では、そのような設備が整っていることが一般的なのでしょうか?
当時、ほとんどのスイスの学校には暗室があったと思いますよ。でも、近年ではデジタル写真コースの方が一般的なのではと思います。今では、暗室はむしろ珍しい方かもしれません。
── 高校を卒業後は、どのように過ごされましたか?
スイスには兵役義務がありますが、私は健康上の理由で兵役が免除されました。そこで、半年間カナダに渡り、バンクーバーのコマーシャルフォトグラファーのアシスタントをしました。その時に、「これが私のやりたいことだ」と確信したんです。その後、カリフォルニアのブルックス写真大学で3年間写真を勉強して学士号を、ヨーロッパに戻ってチューリヒ芸術大学で芸術修士を取得しました。
── エーベルハルトさんにとって、写真はどのような存在ですか?
写真のおかげで素敵な人々に出会い、素晴らしい場所に行くことができました。写真は、自分の思想や意見を発信するためのツールです。また、いろいろな方々との出会いを通して新しい考えを知り、視野を広げてくれます。
── エーベルハルトさんの作品からは、写真が芸術表現の一つの方法として使われ、芸術的なアプローチをされている印象を受けます。
写真というメディアを使って作品を制作していると言えるでしょうか。でも、アーティストと呼ばれようが、写真家と呼ばれようが、そこに違いはありません。どちらでも良いんです。
小さな写真にうつる全世界の景色
── 新型コロナウイルス感染症の規制が厳しかった頃、旅に出ることができませんでしたよね。この感染症は、今回KYOTOGRAPHIEで展示される〈Escapism〉にどのように影響しましたか?
そうですね。スイス人なので、ずっとスイスのテーマについてやりたいと思っていました。スイスのヴヴェイで開催される写真祭「フェスティバル・イメージ・ヴヴェイ(Festival Images Vevey)」のディレクターのステファノ・ストールと話をするうちに、コーヒーフレッシュの蓋に印刷された写真を使って何かできないかと思い始めました。その蓋なんですが、今日では見向きもされませんが、1980年代と90年代はコレクターの間で高い人気を誇っていたんですよ。私と同世代のステファノも、この小さな写真の世界に関心を示してくれました。蓋の写真は、何十年にも渡って、スイス国内の視覚的な世界認識を形成してきたんです。
── コーヒーフレッシュの蓋を蒐集する伝統なんて、これまで聞いたことがありませんでした。
蓋の蒐集は、スイス特有ですね。アルミニウムの蓋に印刷された写真には、小さく、とても巧妙で、牧歌的でロマンチックな世界が描写されていることが多いです。その小さな蓋に写る美しいスイスの山々を背景に立つ幸せそうな牛を見ると、「ああ、なんて世界は完璧なんだろう!」と思うでしょう。モチーフが素朴で、ある意味で完璧なので、この蓋はまるでこの世に何の問題もないような気にさせてしまうのです。
── この伝統が気になって、スイス人の友人に尋ねてみたところ、彼女のおばあさんも蓋を集めていたそうです。
そうでしょう?私たちの世代は皆、母親や父親、おばさんなど、蓋を集めていた人が家族や親戚の中にいるんです。
── コーヒーフレッシュの蓋への関心から、〈Escapism〉にはどのように発展していったのでしょうか?
私は、蓋に描かれた風景に注目しました。その風景写真は、旅への願望、まだ見ぬ世界を見たいという欲望、逃避(エスケープ)を連想させるものです。それが〈Escapism〉のプロジェクトに発展していったのです。この作品を日本で展示する機会をいただき、とても嬉しく思っています。日本にも、小さく、貴重で、精密なものがたくさんありますよね。面白いことに、日本はスイスよりも少ないですが、コーヒーフレッシュの蓋を集めている人がいる数少ない国です。スイスでも、日本の蓋を集めている人がいて、素敵なつながりだな、と思っています。
── 面白いですね! エーベルハルトさんはその小さな蓋の写真を、カメラで撮影して拡大しているんですよね?
はい。〈Escapism〉は、2022年の「フェスティバル・イメージ・ヴヴェイ」で初めて展示されました。作品の大きさは、1.56 m x 1.24 mで、元のイメージより約100倍大きいです。これくらい拡大することでCMYKカラーモデル、つまりシアン、マゲンタ、イエロー、ブラックのドットがとても鮮明に見えます。
── 拡大された画像の色調は変更されましたか? それともこの色は元々の色なのでしょうか?
おおかた元々の色です。画像には少し手を加えましたが、色はあまり変えていません。
──この拡大された画像は、点描画を想起させますね。
まさにその通りです。19世紀末の点描画で知られる、後期印象派のジョルジュ・スーラやポール・シニャックなどは、モチーフをカラフルな小さな点だけで描いたのです。点描画は、遠くから見るとモチーフが見えるのに、近くから見ると小さな点しか見えませんよね。
はかない「価値」
── 20世紀末には、コーヒーフレッシュの蓋のコレクションの価値が急激に上昇したと聞きました。
そうなんです。1980年代後半から1990年代前半にかけて、コーヒーフレッシュの蓋の市場は尋常でない成長を遂げました。ほんの一握りの蓋が2,000ドルや3,000ドルもの大金で売買されていたのですから。それも、2000年以降、市場が完全に崩壊してしまい、蓋は実質的に無価値となりました。今日では、包括的なコレクションでもおそらく150〜200ドルくらいの価値しかないでしょう。
── この蓋の価値変動とアートマーケットには類似点があるようにも思います。
ハハ(笑)。アートマーケットをみると、作品にとんでもない値段がついていることもありますね。美術作品の値段もいつか暴落するかもしれませんし、そうではないかもしれません。それは誰にもわかりません。私は、突如として現れ、異常な高額で売買された、NFTアートとの類似性についても考えています。NFTアートの市場に持続可能性はなく、最初のブームの後すぐに崩壊し、大金を失った人もいました。
── コーヒーフレッシュの蓋は今でも生産されていますか?
はい。カフェでコーヒーを注文すると蓋のついたコーヒーフレッシュがついてきますよ。それは今でも変わりません。ただ単に昔のようにはもう蓋が蒐集されていないだけです。でも、今でもコレクションしている人はきっとどこかにいると思いますよ。
── コーヒーフレッシュ容器はプレスチックですよね。スイスでは、プラスチック製品についてどのような議論がされていますか?
うーん、難しい質問ですね(笑)。私たちはいつか、この伝統を捨てなければならないかもしれません。でも、この小さなコーヒーフレッシュがコーヒーに添えられることは、もはや私たちのDNAに刻まれていて、文化の一部になっています。今のところは、まだどこにでもありますよ。
── 出版社の経営もされているそうですね。フォトブックもまた、人とコミュニケーションをはかるツールだとお考えですか?
私はフォトブックが大好きなんです。初めて自分のフォトブックを作った時、もっと本を作りたいと思いました。それで、2011年にb.frank booksという小さな出版社を立ち上げ、他のアーティストと一緒に仕事をするようになりました。かれらの本を作るときは毎度、まるで自分の新しい本を作っているかのような気持ちになります。確かに、これもコミュニケーションを取る方法の一つですね。そうして他のアーティストと接することで、かれらがどのように作品について考え、表現しているのかを知ることができました。
── 全世界的な新型コロナウイルス感染症の蔓延、戦争、自然災害で世界は変わりました。エーベルハルトさんは、現代社会についてどのようにお考えですか?ご自身の生活の中で大切にされていることはありますか?
個人的には、家族や友人、かれらの健康、日々の幸せを感じることを大切にしています。でも、世界規模では、そのリストには終わりがありません。気候変動、ナショナリズムの台頭、公衆衛生問題など、世界は非常に多くの課題に直面しています。ヨーロッパでは70年ぶりに大規模な戦争が起こり、トルコ・シリア大地震のような自然災害も起きています。考えるべきこと、懸念すべきことはたくさんありますが、もちろん悪いことばかりではありません。私たちは今、歴史上非常に興味深い時代に生きていると思いますが、それはおそらく、人が自分の時代についていつも言っていることなのかもしれません。
── 最後に、KYOTOGRAPHIE の来場者の方々に向けて、一言メッセージをお願いいたします。
スイス特有の面白い文化を楽しみながら、日常生活からエスケープしましょう。それはこの作品の制作を通して私自身がしていることだからです。作品を眺めている瞬間は、ジャングルや火山、氷山に逃避するのです。これは、世界を巡る小さな旅なのです。KYOTOGRAPHIEに招待していただき、ありがとうございます!
1984年生まれ、スイス人写真家。ブルックス写真大学(カリフォルニア州サンタバーバラ)にてBFAを、チューリヒ芸術大学にてMFAを取得。現在、チューリヒを拠点に活動。世界中を巡り、領土や国境、グローバリズムといった現代社会の問題をテーマにドキュメンタリー的な視点で作品を制作している。2011年にチューリヒで出版社「b.frank books」を設立し、現在もアーティストのための出版プロジェクトを継続している。〈Human Territoriality〉(人間の縄張り意識)シリーズは2020年のSwiss Design Awards(スイス・デザイン・アワード)にノミネートされ、その一部を収録した作品集(Edition Patrick Frey社刊)は2020年の「The Most Beautiful Swiss Books」(最も美しいスイスの本)に選ばれている。C/O Berlin(ツェーオー・ベルリン、ベルリン)やビクトリア国立美術館(メルボルン)をはじめ、世界各国で作品を展示。Robert Morat Galerie(ベルリン)にて作品が取り扱われており、Galerie Mai 36(チューリヒ)でも展示を行っている。
キュレーター
Stefano Stoll ステファノ・ストール
「Images Vevey(イマージュ・ヴヴェイ)」の創設者兼ディレクター兼チーフキュレーター。Images Veveyは「ビエンナーレ」「アワード」「展示スペース」「出版」の4つの活動を柱としている。2年に1回開催されるビエンナーレ形式のImages Veveyは2008年のスタートで、街路や公園、湖、建物のファサードなどの屋外空間や、美術館、ギャラリーなどの屋内空間、さらには意外性のある展示会場など、ヴヴェイ市内の各所において、写真を用いたサイトスペシフィックなインスタレーションを行っている。写真関係ではヨーロッパで最も長い歴史を持つ奨学金のひとつである「グランプリ・イマージュ・ヴヴェイ」を主催するほか、現代写真に特化したオルタナティブスペース「ラパルトマンーエスパス・イマージュ・ヴヴェイ」を創設し、そのキュレーションも担当している。現在は出版部門の強化に取り組んでおり、「イマージュ・ヴヴェイ・ブック・アワード」などの革新的な出版プロジェクトの支援に力を入れている。AICA(国際美術批評家連盟)会員。文化政策やビジュアルアート、写真に関する執筆活動も行い、様々な国際的なイベントで審査員や座長を務めている。